平野の歴史

平野の歴史

平野の歴史は平安時代にまでさかのぼります。 平安時代当時、平野区の5地区「平野」「喜連」「瓜破」「加美」「長吉」のうち、「平野」「喜連」は摂津国に、「瓜破」「加美」「長吉」は河内国に属していました。このうち摂津国である「平野」「喜連」は畿内(王や皇帝が住む都の周辺の地域)に含まれ、延喜式での格は上国です。
当時の平野は「摂津国住吉郡平野庄」と呼ばれおり、征夷大将軍の坂上田村麻呂の次男、坂上広野の領地・荘園であったことから、「広野(ひろの)」と称され、それが転訛して「平野(ひらの)」になったと言われています。
坂上広野の荘園は、藤原氏を通じて宇治平等院領に寄進され、約500年もの間、宇治平等院の荘園となり「平野庄」と呼ばれました。

中世以降は、日本十三宗の一つに数えられる融通念仏宗の総本山・大念仏寺などの有力寺院が建立され、坂上広野の子孫・平野氏一族の末吉家を筆頭とする平野氏七名家が自治権を掌握し、堺と並ぶ自治都市を形成していきました。 天下統一を目指す織田信長の圧力を受けた際には、荘園や町の周辺に環濠を掘って抵抗を試みましたが、結局は織田信長に屈服することになり、豊臣秀吉による天下統一後は環濠も埋め立てられました。天正20年には平野を含む周辺地域一万石が北政所(おね)の所領となりました。

豊臣秀吉の死後、江戸時代となってからは綿の集散地として栄え、生産された織物は河内木綿と呼ばれ重宝されました。大坂の役では平野に徳川家康の陣が敷かれ、その際、幕府は末吉氏を平野地区の代官とし、戦で焼土と化した町の再整備を行うよう命じました。町の美観と保安のために碁盤の目のような町割にし、環濠も再度掘り直され、「平野郷」という名で呼ばれるようになりました。平野郷は数多くの豪商が住み、時の権力者とも交流を盛に行い、商業都市として栄えました。明治以降も稲作や綿の栽培が行われ、綿業の町として発展しました。

昭和に入ってからは平野郷周辺の街区が徐々に形成されていきます。昭和の初期までは環濠も残っていましたが、戦後の急速な経済発展とともに埋め立てられ、農地は住宅地へと変貌を遂げ、また平野郷も住宅地の一部となりましたが、町割は現在も当時の面影を残しています。

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現在の平野

現在の平野は、住居地域としての役割が強く、大阪市内において第1位の人口を有する区となっています。
幹線道路沿いは産業地らしく近代的なビルが建ち並んでいますが、ひとたび路地に入るとビル郡は姿を消し、江戸時代から残る古い町家やモダンな佇まいの建物が現れ、幹線道路沿いとは対照的な表情を見せます。

現在も古くから残る寺院や旧家屋は、深い平野の歴史を物語る情緒・趣を醸し出しており、住民の手により修繕が行われるなど、重要な歴史の道しるべとして、保存活動が盛んに行われています。
平野郷の杭全(くまた)神社では、7月に大阪市内で最大規模の「杭全神社 平野郷夏まつり」が行われ、大変な盛り上がりを見せています。
境内には府指定天然記念物の巨木である樹齢八百年のクスノキがあり、「くすのきさん」と呼ばれて地元の住民たちに親しまれています。
このように、近代的な面と歴史的な面を併せ持つ平野区では、産業・文化・伝統・歴史を伝えようと街全体で街起こしが行われています。

平野アネックスの周辺である喜連西エリアは、寛永元年に豊臣秀吉の妻である北政所(おね)が領主となった、今でも古民家の街並みを色濃く残す由緒ある地区です。交通至便に長けながらも、幹線道路から離れた場所に位置しているので、閑静で落ち着いた時間を過ごせることでしょう。また、周辺には大型ショッピング施設をはじめ、医療や教育など日常をサポートする生活利便施設が点在。 さらに、梅田・天王寺方面にもダイレクトアクセスできる利便性で、住むほどに便利さ、快適さを実感できます。 EPOCH 平野アネックスは、潤いに充ちた贅沢な暮らしを皆様にお届けします。

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